「まちづくり」といっても、これに携わる人のバックグラウンドは多種多様かもしれません。自分のまちの足元からの「気付き」もあれば、技術や経験のスキルと地続きで、仕事になっていた、という人もいるでしょう。2024年夏、古民家を改修した複合宿泊施設を鎌倉で開業した合同会社ひと・いきの赤間遼太さん。「まちづくり」のフィールドに辿りつくまでの道のりには意外な出会いがありました。その原点から探るインタビューの前編。(取材:ENJOYWORKS TIMES 佐藤朋子)*後編はこちら
――まずは、「まちづくり」の業界に関わるまでの道のりを聞かせてください。学生時代の経験にそのきっかけがいくつか詰まっているとか。
おぼろげに「まちづくりに関わりたいな」と思うようになったのは、高校生の頃でした。北京オリンピック(2008年)が開催された年、これに向けてかなり大規模なまちづくりが行われている、と言うのを聞きました。そこに自分でも思うところがあって「まちづくりって、どういった形で学べば…?」――自分の将来像というか、「自分ができることって何かな」みたいなのが、おぼろげに出てきた感じでした。幼少期からものづくりが好きで、祖父も父も設計の仕事をしていたという影響があったのかもしれません。それで、大学ではまちづくりや都市計画を学ぶために横浜国立大学の土木を専攻しました。当時は、ゼネコンに行って、それこそ「地図に残るような仕事をしたい」という野心がありましたね。
自分は根っから理系だなと思っているのですが、「専門領域だけじゃなくて、何か両極端なことがやりたいな」と考えて大学1年生の時から、学生の有志で飲食店の経営をしていました。サークルとは違う形で、1~4年生の現役生でお店を借りて*、全部自分たちで運営していたんです。数年前に立ち上げた先輩たちが卒業して、店を継いでいくタイミングでした。
*横浜市保土ヶ谷区の和田町商店街にあるカフェバー「YUZURIHA(ユズリハ)」。横浜国立大学生が経営していて「代々に譲っていく」という由来があるそう。キッチンやホールの業務以外にレシピ開発なども全て学生のみで動かしており、今年で19年目になる
「街の中のお店を運営する経験」が、まちづくりの視点でも繋がっているなと思ったのと、単純に食べることが大好きだったというのもあって。そんな大学生活を過ごす中で、転機というか意識が大きく変わったのが、大学3年生の時に発生した東日本大震災でした。宮城県の出身で、3月11日は僕の誕生日。当時、ちょうどゼミを決めるタイミングでした。実家の被害は大きくなかったのですが、あの災害を目にして「防災を専門にしたゼミはあるのかな」と思って調べてみたのですが、どこもなくて。「国立大学が防災の研究していないなんておかしくないですか?」って先生にも進言したのです。そうしたら「どこかでやらなきゃいけないね」と動いてくれて、コンクリート工学の先生と一緒に防災の研究を始めることになりました。
これがきっかけで、地域防災を学ぶことになって。全国のいろんなところに行く機会をもらって、たどり着いたのが広島県の鞆の浦。崖の上のポニョのモデルになった港町です。卒業研究の1年間で10回以上、延べ60日ぐらい現地に足を運びながら、地域防災のリサーチや防災教育啓発といった活動をしていました。海に臨む立地もあり、調査する中でこの地域の災害リスクが高いことが分かったのですが、「住民の防災への意識をどうやって高めていけばいいのか…」「外から来た人間が対策の重要性や具体策を説明してもちゃんと届くのだろうか」――そんなことを考えて、地元に溶け込むべく、秋祭りで子ども向けの「納涼肝試し大会」を企画しました。イベントは好評で、横浜の大学生たちが町のことを真剣に考えている…と知っていただき、これをきっかけに、小学校から防災授業の依頼が来て、児童を前に講演をする機会もできました。啓発冊子も作成したのですが、振り返ると「本当に懸命に研究に熱を注いだな」という経験でした。
――卒業後、不動産事業者に就職されましたが、大学での学びや経験を活かすことと「仕事」との間で悩みませんでしたか?
実は、鞆の浦で調査をしながら感じた地域課題が「空き家」。少子高齢化が進んでいて、地域力も弱まっている。空き家が地域防災の障壁になっているし、町を守る共通意識を上げるにはどうすればいいのだろう…そんなことを考えていました。
卒業後、ゼネコンや官公庁などに就職する進路もありましたが、自分が見つけた課題を解決するには何年かかるのだろうと思って。「じゃあ一番手っ取り早いのは民間企業に行って、なんなら自分がすごくお金を稼いで、自分で空き家を一軒でも多く改修して…その地域の魅力を発信して地域のファンを増やすことが一番いいんじゃないか」と考えました。そこで不動産事業者に就職したという経緯があります。
2013年に新卒で入社した横浜の会社には、企画職志望で入ったのですが、当時は「THE町場」の不動産屋という感じで、最初は全員が営業部門に配属されて、戸建てやマンションの販売をやっていました。そこで自分の方針も一旦変えて「営業でトップになって稼ぎまくって、自分の休みを使って地域に出ていこう」と。そうして、鞆の浦には社会人になってから5年間くらい通い続けて、引き続きイベントにも携わって。自分の休みを使ってやっていたので、誰も文句言う人はいませんでした。これを会社の事業としてやろうとすると、あれこれ諮って難しいことも多いと思うのですが、個人で切り離してできたから続けられた、というのもありますね。
仲介の仕事をしていて良かったのは、いろんな業者の不動産に対する考え方や物件活用法の知見が一気に広がったこと。「自分で空き家を改修して事業をやりたい」というのは、ずっと考えていて、タイミングを狙っていたので、業界側からの視点も得られたのは大きかった。ただ、ずっとサラリーマンでいるっていうのはないだろうな、と。副業を会社に相談したのですが、全社の規定を変えるのは難しくて、特別対応でフルコミッションの業務委託社員という制度を作ってもらいました。法人の営業で成果を出しながら、他の不動産事業者とのネットワークも広げる。会社もそういう働き方を応援してくれていて、自分の法人(会社)を立ち上げ後の32歳の時に、完全に独立しました。
AKAMAウェブサイト
https://akama-inc.jp/
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学生時代の縁をそこで終わりではなく、自身のライフワークとして深めていった赤間さん。事業としてステップアップさせていく道のりは後編で。
12/14(土)、赤間さんの進めるプロジェクトのオンライン説明会を開催します!
題して「AKAMAの挑戦 鎌倉から富山へ」
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